《抱一との出逢い》


代表作「夏秋草図屏風」



(2010年7月・東京国立博物館にて)


☆始まりは東博から
 画集にしろ何にしろ、酒井抱一の作品に出会ったのがいつだったのか、私自身にも正確な記憶はありません。ただ、初めて(多分)「実物」に対面した時のことは大変はっきりと憶えているので、恐らくはそれが事実上、私と抱一の最初の出会いであったろうと思われます。時は1995年、所は東京国立博物館の「特別展・花」でのことでした。

 それより数年ほど前から熱心な美術館通いはしていたものの、始めの頃は西洋美術一辺倒であまり日本美術には興味がなかったので、まさにこの1995年が遅まきながら関心を持ち始めた頃でした。だから東博を訪れたのもその時が初めてだったのですが、それだけに博物館の広さ、出展作品の多さと質の高さにただただ圧倒され、一通り見るのがやっとでへとへとに疲れ果ててしまいました。(笑) この当時はまだ現在の平成館ができる前で、確か本館の一階を丸々使っての大展示でしたから、東博に行ったことのある方ならどれほどの規模だったかご想像いただけるでしょう。
 とはいえ、それでも数多い作品の中で特にいいなと感じたものがいくつかあって、光琳の冬木小袖や呉春の白梅図、応挙の藤花図等はこの時初めて見たのを記憶しています。もっと華やかな作品も多い中で割合に大人しい感じのものばかりに目を惹かれたあたり、既に私の好みを顕著に反映していたようですね。
 そして、そんな中でとりわけ印象に残ったのが、他でもない抱一の代表作「夏秋草図屏風」でした。

 もちろんその当時、「夏秋草図屏風」は私にとっては名前も知らない画家の作品のひとつでしかなかったものでしたが、始めにまず画面右上の水の流れを見た瞬間、何て優美な線なんだろう、と思いました。その時は主役の夏草・秋草の方はあまり印象に残らなかったようなのですが、光琳流水のシンプルで大胆なデザインとは似ているようで全く違う、鮮やかな群青に繊細でしなやかな金の線で描かれた“にはたづみ”に視線が釘付けになったことだけは強く記憶に残っています。実のところ他にもいくつか抱一作品はあったのですが(四季花鳥図巻等)、そもそも酒井抱一と言う名前自体全く知らなかった私には、何故かその絵だけが後々まで印象に残っていました。

 翌1996年、「日本の美 琳派」(日本橋高島屋)や「祝福された四季」(千葉市美術館)など、これも抱一作品の多い美術展に行く機会がありましたが、どうやらその時もまだ抱一の名前を覚えていなかったようです。今になって図録を開いてみれば、通常日本では滅多に見られないような海外所蔵の作品(ギッター、プライス他)も数多くあったというのに、惜しい事ながらそれらを見た記憶は全くと言っていいほど残っていません。何しろ高島屋の展示で初めて『琳派』という名称や「たらしこみ」という奇妙な名前の(笑)技法を覚えたくらいでしたから、かろうじて『琳派』という流派を意識はしたものの、まだ本当に興味を持つか持たないかの初心者だったのです。
 そんなわけで、最初の出会いこそ印象深く忘れがたかったものの、その後もしばらくの間は相変わらず、私にとって抱一は名前も時代も知らない画家のままでした。


☆再び「夏秋草図屏風」
 本格的な「第二の出逢い」は、またしても東博でした。
 何年だったか正確な記憶はないのですが(多分1997年の「日本のかたな展」の時だったのでしょうか)、久しぶりで東博を訪れた秋に、ふらりと足を運んだ本館の2階で再び「夏秋草図屏風」に出会いました。今度は常設展だったので人も少なく、最初のわずかな出会いから久し振りだったこともあってか、妙に懐かしい気持ちでしばらくの間しみじみと見入ったものです。その後1998年の「日輪と月輪展」(サントリー美術館)で「紫式部石山寺観月図」を見た時には「あれ、抱一ってこんなもの(大和絵)も描くんだ」と思ったのを憶えているので、恐らくこの二度目の邂逅が抱一の名前をはっきりと認識し記憶に留めた直接のきっかけでした。

 その後、どうやら自分は琳派が好みらしいと気付き、その中でも知名度の高い光琳でも宗達でもなく、抱一が最も好きだという自覚に達するのにさほど時間はかかりませんでした。特に玉蟲敏子氏の名著「夏秋草図屏風 追憶の銀色」(平凡社、1994)を読んで感動してからというもの、抱一作品のありそうな美術展は注意してチェックするようになっていったので、1998年以降は俄然美術展で見る回数も多くなっています。中でも、1999年は「琳派空間」(Bunkamura)「金と銀」(東博)「琳派の美」(出光美術館)「皇室の名宝」(東博)、続く2001年も「紅白梅図屏風と所蔵琳派」(MOA美術館)「琳派の華 酒井抱一」(出光美術館)「風流公子 酒井抱一」(細見美術館)と、琳派や抱一の“当たり年”が続いたおかげで、これらの機会で有名な作品はかなり網羅できて、琳派作品の実物に触れて学ぶ絶好の機会となりました。
 ただ、かの「夏秋草図」は「金と銀」以降ご無沙汰で、2003年10月の常設展示でやっと久しぶりに見てきました。抱一の最高傑作であると同時に光琳への追慕をこめたと言われるあの絵は、私にとってもノスタルジックな切ない懐かしさをかきたててやまない忘れがたい作品です。秋風が吹いてお月見の季節が来ると、月光のような銀地に舞うはかない秋草の姿が思い出されて、ひとしお強くあの絵にまた会いたいと思います。

追記:
 上記の文の後、2004年は久々に大変な琳派の当たり年でした。大反響を呼んだ国立近代美術館の「RIMPA展」を始め、細見美術館所蔵品の巡回展「若冲と琳派展」、MOA美術館の「光琳デザイン展」と紅白梅図特別公開(&NHKスペシャル)、三越の琳派展等、10年に一度あるかないかというほどの素晴らしい機会に恵まれて、琳派ファンには実に嬉しい一年でしたね。特に「RIMPA展」ではもちろん「夏秋草図屏風」も出ましたし、加えて同じ展示室にもうひとつ、鈴木其一の「朝顔図屏風」がはるばるメトロポリタン美術館から出品されていたのがまた感激でした。(其一は師匠抱一とも光琳ともまた違うモダンな感性が持ち味で、抱一ほどではないもののあの絵は大好きです。^^)
 さらに2006年、今度はバーク及びプライスの海外二大コレクション来日に加え、宗達・光琳・抱一の「風神雷神図屏風」一挙展示(出光美術館)という、これまた豪華な一年でした。特に風神雷神は単品でならそれなりに見る機会があるものの、三点が一度に揃うのは実に66年ぶりとあって大盛況でしたね。またプライス展も大人気でしたが、抱一は若冲ほど混まなかった分却ってゆったり見られたのがよかったです。(どうせ私若冲は苦手なので。苦笑)
 そして2008年、光琳生誕350年という節目の年を迎えて東博でご存知「大琳派展」が開催されました。元々東博は光琳の八橋硯箱や風神雷神図(+抱一の夏秋草図)を所蔵しているのに加えて、根津美術館がちょうど改修休館中で普段は門外不出の燕子花図屏風が特別出展、さらに風神雷神図は宗達・光琳・抱一に鈴木其一の襖絵も加わった揃い踏みが大変な反響を呼んだようです。本当に1回や2回では堪能しきれない豪華な内容で、結局過去最多の5回通いつめました。(笑)

2011年追記:
 2011年は酒井抱一生誕250年という節目の年とあって、まず出光美術館で「琳派芸術」、次いで畠山記念館で「酒井抱一 琳派の華」が開催されました。そして最大の見どころは、夏から秋にかけて姫路、千葉を巡回した史上初の抱一大回顧展「酒井抱一と江戸琳派の全貌」です。海外コレクションの里帰りはありませんが、国内所蔵の抱一作品の大半が一挙公開されるという、今後数十年はちょっとないかもしれないような素晴らしい内容でした。(私も千葉会場に4回通い、「夏秋草図」下絵と本絵が並んだところを初めて見て大感激でした)

2012年追記:
 2013年度は、ファインバーグ・コレクション展江戸東京博物館MIHO MUSEUM鳥取県立博物館巡回)にて抱一作品が来日します(大琳派展以来?)。また少し先ですが、2016年は光琳没後300年、というこれまた注目の年です。多分既に色々企画は上がっていると思いますが、2008年の大琳派展に続き、今度は何があるでしょう…?

2015年追記:
 2015年は本阿弥光悦が徳川家康から鷹峯の地を拝領してちょうど400年になることから、琳派誕生四百年、さらに尾形光琳三百回忌という節目の年でもあるため、「琳派400年記念祭」の一大プロジェクトが発足しました。そしてついに、琳派ファン長年の悲願であった光琳の二大国宝屏風「紅白梅図」「燕子花図」の同時展示がMOA美術館と根津美術館で実現! これは下手をすると一生無理かもと思っていただけに、56年ぶりの実現に立ち会えて本当に大感激でした。また秋には京都国立博物館で「琳派 京(みやこ)を彩る」が開催、京都では75年ぶりに俵屋宗達・尾形光琳・酒井抱一の「風神雷神図屏風」三作同時公開となります。他にも関連イベントは京都を中心に多数ありますので、詳細は琳派400年記念祭公式サイトをご覧ください。

今後の美術展情報:
 2015年の後、琳派関連で大きな節目となる年はしばらくなさそうで、生没年では一番近い抱一没後200年は2028年ですが、その前に「夏秋草図」誕生200年記念(2021年または2022年?)あたりで何かやってくれないかなと密かに期待中です。東博さん、この機会に是非是非光琳の「風神雷神図」と表裏一体展示をまたやってください!(できれば出光さんの下絵も一緒に!!)


【補足:明治以降の大規模な琳派関連展と出品状況】

 明治36年 東京帝室博物館特別展覧会
      風神雷神図 宗達・光琳・抱一作三点

 大正3年  三名家展(日本美術協会主催)
      燕子花図・紅白梅図
 大正4年  光琳二百年記念光琳遺品展覧会(東京三越呉服展)
      燕子花図・紅白梅図

 昭和15年 日本近世名画展(恩賜京都博物館、皇紀2600年記念)
      風神雷神図 宗達・光琳・抱一作三点
 昭和26年 宗達・光琳派展覧会(東京国立博物館)
      燕子花図・紅白梅図
 昭和34年 琳派秀作展(根津美術館、皇太子殿下御成婚記念)
      燕子花図・紅白梅図
 昭和47年 琳派展(東京国立博物館創立百年記念特別展)
      宗達・風神雷神図、光琳・紅白梅図/八橋図、抱一・夏秋草図
 平成18年 国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造(出光美術館)
      宗達・光琳・抱一「風神雷神図」66年ぶりの勢揃い
 平成20年 大琳派展(東京国立博物館)
      燕子花図、宗達・光琳・抱一・其一「風神雷神図」4点初顔合わせ
 平成27年 燕子花と紅白梅(MOA美術館・根津美術館)
      燕子花図・紅白梅図、56年ぶりの同時展示
      琳派 京(みやこ)を彩る(京都国立博物館)
      宗達・光琳・抱一「風神雷神図」京都では75年ぶりの勢揃い

  参考資料:「生きつづける光琳」(玉蟲敏子、吉川弘文館)


《抱一を愛した文人たち》

 一般的な知名度こそ宗達や光琳には及ばない抱一ですが、その絵は明治以降の文人たちにも好まれ、いくつかの文学作品にも登場してきました。ここではそんな作家たちや作品について簡単にご紹介します。


【夏目漱石】

 明治を代表する文豪漱石は、恐らく文学作品に抱一を登場させた最も早い作家の一人で、その記念すべき舞台となったのが彼の職業作家としての第一作「虞美人草」でした。終盤で女主人公の死の床を飾るものとして使われた銀屏風は、漱石の生み出した架空の作品ながら「夏秋草図」を髣髴とさせる優艶な姿でその場を演出しています。
 逆に立てたのは二枚折の銀屏である。一面に冴え返る月の色の方六尺のなかに、会釈もなく緑青を使って、柔婉なる茎を乱るるばかりに描た。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁を掌ほどの大きさに描た。茎を弾けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描た。吉野紙を縮まして幾重の襞を、絞りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。凡てが銀の中から生える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草である。落款は抱一である。

――――「虞美人草」

 なお「虞美人草」とは周知の通り、今でいうヒナゲシのことです。抱一の現存作品でこれを中心に描いたものは私もちょっと覚えがありませんが、前田青邨や小林古径のような感じかなあと想像を巡らしてみるのもまた一興かと。(そういえば青邨の金屏風は、抱一の銀屏風「水仙図」と構図がちょっと似ていますね)

 参考リンク:「虞美人草」(全文データ、青空文庫提供)
 ブログ関連過去ログ:虞美人草の謎 青邨・漱石・抱一

【阿部知二】

 作家であると同時に英文学の翻訳家としても馴染み深い阿部知二は、少年時代を姫路で過ごしたこともあって抱一に少なからぬ関心を持っていたようです。短編連作「城」(もちろんこの『城』は姫路城のことです)で取り上げられた「H上人」は明らかに抱一を指しており、作中に登場する掛け軸の描写や登場人物の語り口からは、彼自身の抱一という人物に対する愛着がそのまま溢れているのが感じられます。
 ぼくは絵が分らぬから、どうして感心したかということを、君にいま伝ええることも出来ぬが、――ともかく、ロココ趣味とでも言わばいえ、その優婉で品位もある秋草の線と色とは、何かしらぼくをもの柔かな夢のようなものにさそいこんだ。(中略)

「あんた方の思想から見ると、どうかとおもわれる点もありますやろが、それでもわたしは、上人は幸せなえらいひとやつた、とつくづく思うのですわ。」と、彼は話しおわっていうのだった。 

――――「秋草図」

「研究者をして「もっとも幸せな画家の一人」と言わしめる」(吉中充代「姫路城を彩る人たち」)抱一のイメージがここにも明瞭に現れています。抱一の絵に惹かれた人々は、往々にしてその生き様を知り一層彼に憧れるようですが、阿部知二もその一人だったのしれませんね。


【丸谷才一】

 この方も抱一の画業のみならず俳諧や彼自身の人生にも強い興味をお持ちで、一度抱一論を書きたいとまで言われています。というわけで、短い文章ですがちょっとご紹介しましょう。(注・表記は現代仮名遣いに変えています)
 個人の才もあろうし、時代の性格もあろうが、とにかく、日本の歴史のなかでこれほどおっとりとめでたく、風雅に遊ぶ自由を得た人はいない。この際、あれでもうすこし苦労していれば抱一の絵や俳諧の格がもう一つあがったろうなどと憎まれ口をきくのは余計なことで、われわれはただ彼の境遇を羨み、ほんのちょっぴり嫉妬すればそれでよいのである。彼は逃避を一個の芸術品と化した。旦那芸の最上のものと言って差支えないであろう。

「日本の色」より(大岡信編、朝日選書、1979)

 さすが丸谷才一氏、この短い一文で抱一愛好家の気持ちを見事に代弁してくれています。中でも「あれでもうすこし苦労していれば…」のくだりは痛快で、やられたなあと思いつつ「そうそう、まさにその通りですよね!」と大きく頷いてしまいました。(笑)


【澁澤龍彦】

 マニアックといえばこの人に尽きる(笑)鬼才澁澤龍彦もまた、実は抱一の大ファンでした。澁澤は抱一をバロック的宗達・光琳に続く「マニエリスト」と呼び、特にその花鳥画、というより植物画の素晴らしさに最大級の賛辞を捧げています。少し長いですが、彼の感動を伝える文章を引用してみましょう。

 とくに「夏秋草図」は抱一作品のなかでも絶品というべきで、日本の四季の草花がこんなに美しいものか、こんなに悲しいほど美しく透明であってよいものか、といった理不尽な思いに私たちを誘いこむばかりの魅惑にみちている。(中略)
 まず銀箔の地であるが、これがいかにも宗達や光琳の好んだ豪奢な金箔と対をなしているようで、いわば琳派の夕暮、琳派の秋、あるいは琳派のマニエリスムという感じをいだかせるに十分であろう。むろん、抱一にも紙本金地の作がないわけではないが、蒼白な銀地は抱一芸術にふさわしいといえるだろう。その銀地の上に、緑青と群青の寒色系統をちりばめ、赤と白でアクセントをつけた布置の巧はすばらしく、心にくいばかりの洗練である。江戸的な洗練、粋といってもよいかもしれぬ。
 左隻は夏で右隻は秋である。
 夏の夕立が一過して、しっとりと濡れた左隻の草花には薄、昼顔、百合、女郎花などが数えられる。右上に光琳波をくずしたような群青の流水を配している。昼顔のほのかな紅が見る者の心を打つ。一方、右隻には野分が吹き荒れているらしく、葛が葉裏を見せてひるがえり、薄の穂がなびき、紅葉した蔦が風に吹きとばされて舞っている。下のほうに見える薄紫の花は藤袴だろうか。
 日本の自然に特有の、冷え冷えとした幽寂の気のごときものが画面全体を覆いつくし、画面全体からにじみ出てくるような印象で、艶なるふぜいの中にも無限のさびしさがある。ああ、日本の自然とはこういうものだったのか、と私は目をひらかされるような思いをする。

澁澤龍彦空想美術館」より(平凡社、1993)


 さすが澁澤龍彦、と感嘆する流麗な文章に、思わず図版を見直してまた惚れ惚れとさせられます。なおこの小文の題は「マニエリスト抱一 : 空前の植物画家」といいますが、ふと彼の「フローラ逍遥」を思い出しました。


付記:
 そういえば以前、全国を巡回した細見美術館の「若冲と琳派」展で、こんなキャッチコピーがついていました。
「いとおしいほど繊細で、哀しくなるほど美しい。」
 この文句を見た瞬間、これは若冲というより抱一ではないのかしらと思いましたが、今にして思えばこれはまさに澁澤龍彦の「こんなに悲しいほど美しく透明であってよいものか」という、殆ど溜息のような感嘆にも通じる言葉ですね。緻密な描写という意味では若冲や鈴木其一にも共通するものはありますが、こんなロマンチシズム溢れるキザな表現(笑)はやはり、抱一の世界にこそ似合うものでしょう。


抱一の部屋へ