《画家、酒井抱一》

☆琳派の系譜

 江戸時代初期、狩野派や土佐派とは異なる独自の趣を持った、装飾性豊かで華やかな芸術の流派が新たに京都で生まれた。絵画のみならず書や工芸など幅広い分野にわたるこの流派は、俵屋宗達や本阿弥光悦に始まり、尾形光琳に至り全盛となったことから現在『琳派』と呼ばれるが、光琳からおよそ百年の後、今度は江戸で新たな展開を見せる。そして、この先駆けとなったのが酒井抱一であった。

 そもそも琳派は、血統ではなく私淑によって断続的に受け継がれるという、絵画史上でも特異な特徴を持つ流派である。宗達に惹かれて「風神雷神図屏風」を模写した光琳が後に「紅白梅図屏風」を完成させたように、抱一は光琳を隔世の師匠と仰いで深い敬慕の念を抱き、やがて代表作「夏秋草図屏風」を産み出す。闊達で大らかな宗達、大胆で絢爛な光琳に対し、抱一の作品は繊細で叙情的な風情を漂わせており、大名家出身らしい品格をたたえた独自の典雅な画風を展開していった。彼に始まる『江戸琳派』は、弟子の鈴木其一を始めとする門下の後継者たちに受け継がれ、その後神坂雪佳ら明治の画家たちにも大きな影響を与えることとなる。

※なお、『琳派』という通称が定着したのは比較的最近(特に1972年の東京国立博物館「琳派展」以降)のことで、それまでは「光琳派」「宗達・光琳派」などと称するのが一般的でした。ただこの流派の定義は時代により流動的で曖昧なこともあり、近年では「そもそも『琳派』なる流派は本当に存在したのか?」という問題提起もなされていることを付け加えておきます。


☆抱一の生涯 〜江戸を生きた風流公子〜

 酒井抱一(さかいほういつ)、本名忠因(ただなお)。幼名は善次、通称は栄八。
 宝暦11年7月1日(1761年8月1日)、姫路藩主家十五代(老中雅楽頭)酒井忠恭(ただずみ)の子、忠仰(ただもち)の次男(母は松平乗佑の娘里姫)として、江戸の酒井家別邸で生まれる。(※葛飾北斎より一才下の同時代人である)
 代々風流大名としても知られる酒井家の血を受けて、若い頃の抱一は武士の嗜みとしての能楽や仕舞、茶道の他に俳諧や絵にも才能を見せる。そんな抱一の最もよき理解者は兄忠以(ただざね/号・宗雅)だったが、忠以に嗣子が生まれて以後嫡流から外れた抱一の立場は、酒井家の中で次第に微妙なものとなっていく。しかしそれを知ってか知らずか、彼は他の大名家からの養子の申入れもすべて断り、太田蜀山人、谷文晁、亀田鵬斎、加藤千蔭等市井の多彩な文化人たちとの気ままな交流を楽しんでいた。
 三十六歳の年に兄忠以が急逝し、翌年出家した後もますます文雅に明け暮れ吉原の遊女を身請けすることさえしていた抱一は、一方で尾形光琳との出会いにより大きな転機を迎える。元々酒井家の先祖は光琳のパトロンでもあったといい、恐らく幼少時から身近に光琳の作品に接していたと思われる抱一は四十代に入って以降急速に光琳への私淑を深め、自ら光琳の百回忌法要を営み「光琳百図」の編集にあたるなど、光琳研究に熱中した。当然の結果として彼自身の作風も光琳に強く影響されていくが(特に「たらしこみ」技法など)、その一方で円山派や土佐派など様々な流派の画風も積極的に学び、晩年には王朝文化の流れを汲む大和絵へも深い関心を抱いて、豊かな気品と詩情に満ちた優雅な花鳥風月の世界を作り上げる。光琳を深く敬慕しながらも、その追随に留まることなく新たな境地を切り開いた抱一は、後に『江戸琳派』と称される流派の創始者となった。
 そして代表作「夏秋草図屏風」完成から七年後の文政11年11月29日(1829年1月4日)、江戸の人気画家として名声を博した酒井抱一は六十八才で世を去る。その出自こそ大きく違えども、周りに縛られることなく終生自らの生き様を貫いた点において、抱一は同じ次男坊に生まれ奔放に生きた光琳とどこか共鳴する魂を持っていたのかもしれない。風流を愛し文雅に情熱を傾け、地位を捨て去りながらも己の選んだ道で見事に天与の才能を開花させた、幸福な生涯を全うした画家であった。

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